コーヒー豆の食用の文化とアラビア半島への波及
現在では、コーヒー豆を使った食品や飲料は身近にありふれていますが、食用の文化は古く、資料で確認出来るものでも9世紀までさかのぼります。エチオピアでは、コーヒーの原料となるコーヒーノキという植物が自生しており、果実や種子が古くから食用とされています。コーヒー豆をボンと呼び、煮て食べていたと考えられています。現在でも煮て食べるという習慣が一部では残っており、エチオピア南西部に住む民族では、コーヒーつぶしと呼ばれるコーヒーを炒める儀式があり、子供や家畜の誕生を祝う風習が残っています。そののち、ボンはアラビア半島に渡り、バンと名前を変えて呼ばれるようになります。9世紀に入ると医学者のラーゼスが、コーヒー豆から抽出した飲料をバンカムと名づけ、患者に飲ませるようになりました。これが、コーヒーの原型と考えられています。ただ、このときはまだ焙煎はされておらず、すり潰した豆を熱湯で煮出した飲み物でした。その後、バンカムはイスラムの世界で普及していきます。当初は、寺院で修道者が瞑想や祈りをする際の眠気覚ましとして利用されるようになります。豆が煎られる時代になると、テイストが良い飲みものは数多くの人々に好まれ、一般にも拡がっていきました。その後バンカムは、カフワと呼ばれるようになり、イスラムの世界を中心に、エジプトやイラン、トルコなどに拡がっていきます。
ヨーロッパへの拡がり
17世紀初頭のヨーロッパでは、コーヒーはまだ学者以外の人間に認知はあまりされていませんでした。キリスト教の一部の教徒の間では、コーヒーを悪魔の飲み物として禁止していました。1600年ころになると、その時、ローマの教皇に在位していたクレメンス8世はコーヒーへの教会の識見を要請され、コーヒーを裁判にかけます。このときに裁判にかけるべく味見をおこなうと、自身も香りと風味に魅了されコーヒーをキリスト教徒が飲料とすることを公認したと言われています。17世紀前半になると、ヴェネツィアの商人を介してヨーロッパの各地へと広がっていきます。コーヒーは、当時の欧州で酒類に代わる画期的な飲みものとして受け入れられて行きます。コーヒーの覚醒する作用も好感を持たれることになり、薬用としての面も拡がっていきます。17世紀の後半になると、コーヒーの淹れ方を教授している書籍も盛んに発売がされるようになります。
日本への上陸
日本に初めてコーヒーが上陸したのは、江戸時代初期の長崎の出島であるという説が有力とされています。オランダ人の商人によってもたらされたとされており、彼らと接する機会のあった役人や商人などの一部の人たちが口にしましたが、当時の日本はお茶の文化が根付いており、普及することはありませんでした。19世紀になるとようやく日本でも拡がっていきます。1858年に日米修好通商条約が結ばれ、自由貿易が始まります。明治時代になり、文明開化とともにコーヒーが受け入れられ普及していきました。